悲しみと喜びの旅路 〜感動のカンボジア研修〜 vol.1

ひらのの家

2017/07/03

  海外研修のために異国の地カンボジアを訪れました。何故、私達がカンボジアの小学校を訪れる必要があったのでしょうか? そこには、カンボジアの悲しい歴史がありました。 少し長いのですが、読んで頂ければ幸いです。

  フランスの植民地であったカンボジアは、第二次世界大戦中インドシナ半島を制圧した日本の統治下で独立を宣言するも、日本の敗戦後再びフランスの保護下になり、国王シハヌークの下で1953年独立を果たします。しかし、1970年(※1)には隣国に生じた泥沼のベトナム戦争に巻き込まれ、シアヌークの外遊中にクーデターが起こりクメール共和国が誕生します。この時、台頭したポル・ポトが率いるクメール・ルージュという政党が、政権を奪い取り首都プノンペン入りするとカンボジアの運命が激変し、恐怖政治と戦慄の歴史が始まります。

  まず、武装勢力クメール・ルージュは、カンボジアのすべての都市の住人を地方の農村部に強制移住させ、人民公社での集団生活を強制したため、首都プノンペンでは3日間でゴーストタウンになりました。その他全土に、すべての教育機関の廃止と本の焼却、仏教の禁止と寺院と仏像の破壊、家族の解体(5歳以上の子供は親元から隔離)、全財産の没収、電話や郵便や通貨の廃止、バスや鉄道での移動禁止、恋愛の禁止を命じます。
 
  (※1「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、大阪の吹田市で大阪万博が開催され日本中がこの祭典に沸いた1970年、ピュリツアー賞を受賞した戦場カメラマン澤田教一は、取材中にカンボジアの首都プノンペン郊外で殺害されました。享年34歳。若すぎる死です)
  
  それでは、カンボジア観光からスタートしましょう!


  カンボジアの北西部にある世界遺産の遺跡群の一つであるアンコールワット遺跡です。大伽藍と美しい彫刻を施したクメール建築の傑作として有名なヒンドゥー教寺院建築です。水面には美しく映る、逆さアンコールワットも見えますね。手前は広い蓮池です。


  遺跡のレリーフには内戦時の銃弾跡が今も残っており、静かな遺跡の中にあって往時の戦いの激しさを物語っています。


  急な石階段を上ってやっと寺院の頂上に到着すると、とても素晴らしい眺めです。絶景です!心地良い微風が汗ばんだ頬に吹いてきて、とても気持ちが良かったです。でも、下り階段は転落しそうな恐怖を感じる急角度でした。(-_-;) 「ほんと、死ぬかと思った。」 ←この写真ファイルが開かずブログに登録できないため、仮の写真をアップしました。m(_ _)m


  熱帯の巨木ガジュマルが、遺跡の石に食い込んで絡まる圧巻の風景ですが、この樹木の生命力あふれる侵食が貴重な世界遺産の破壊の一因になっています。まるで巨大な朝鮮ニンジンのようです。締め付けられた遺跡の石は悲鳴をあげていました。


  遺跡の至る所には、お猿さんが沢山います。親猿の横にかわいい小猿がいました。日本のお猿さんとは違って、尻尾が長い種類です。


  カンボジア観光の足となるのは、モトドップと言われるお客さんを後部座席に乗せるタイプや、トゥクトゥクと言われるバイクの後部に座席をつけたタイプのバイクタクシーです。屋根がついているのである程度の雨や日差しを防ぐことが出来ます。乗車前に行き先を言ってドライバーと料金交渉をし、目的地に到着後に料金を支払います。カンボジアの風を体全体で感じることが出来ます。


  次に、「トゥール・スレン虐殺博物館」を訪れました。「トゥール・スレン(通称S-21)」とは、首都プノンペンにあったポル・ポトの独裁政権を支えた武装勢力クメール・ルージュによる政治犯やスパイの拷問のための極秘の収容所のコードネーム(暗号名)です。高校の校舎を改造したこの収容所では、2年8ヶ月間で2万人が虐殺され最終的に生き延びた生還者はわずか8名だけでした。建物全体に張り巡らされた錆びた有刺鉄線が、今も見る者の心に突き刺さります。


  この虐殺博物館の展示物は2003年世界記憶遺産に登録され、収容者の写真や拷問の様子や拷問道具、そして発見当時のまま保存された拷問室やセピア色の写真には腐乱した死体が映っています。言語に絶する光景です。壮絶です。ここトゥール・スレンの収容者たちは、チュンエクにあるキリング・フィールドに連行され処刑された後、集団墓地に埋められました。ここでは音声ガイド機器が無料で提供され、日本語で詳しく解説してくれます。しかし、展示物にカメラのレンズを向けることも、シャッターを切ることもはばかる陰鬱な気持ちに終始襲われました。


  トゥール・スレン虐殺博物館の見学を終えて出てくると、中庭の売店の前に一人の優しそうなご老人がいました。彼はチュン・メイ(Chum Mey)さんです。1931年生まれの御年85歳です。彼は、このトゥール・スレン収容所で生き残った数少ない生存者の一人です。電気ショックによる酷い拷問を毎日受けたせいで今は右耳がまったく聞こえないため私の右側に座っています。血塗られた戦慄の歴史をかいくぐった生き証人としてこの地で休むことなく来客者に接しています。概して生存者の多くは拷問による心的外傷で、長期に渡る深刻な精神的な悩みを抱えるはずなのに、忌まわしい拷問の記憶が残る収容所のそばで堂々とひとり語り続けるなんてとても強い方です。この収容所の敷地内には今でもおびただしい人骨が埋まっていて、雨の後その欠片が地表に現れるそうです。

    
  チュン・メイさんが手にしている本のタイトルは、「生存者」(SURVIVOR)です。この本には、まさに生存者としての彼がトゥール・スレンの収容所で実際に経験した悪夢の日々についての出来事や当時の写真、そして失脚した後の独裁者ポル・ポトや独裁政権を支えた武装勢力クメール・ルージュに関する記事や資料が掲載されています。


  トゥール・スレンの収容所で撮影された解放後のわずか8人の生存者たちの写真です。チュン・メイさんが指差しているのが、開放された時の彼自身です。 (「生存者」(SURVIVOR)の中にある写真から掲載) 


  続いて、キリング・フィールドのひとつ「チュンエク大量虐殺センター」を訪れました。これは、首都プノンペンの南東約15kmにあるチュンエク村にあります。キリング・フィールド(Killing Fields)とは、独裁者ポル・ポトが率いるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)支配下のカンボジアで大量虐殺が行われた「処刑地」の通称で、カンボジア全土に約300か所あります。
  独裁者ポル・ポトが率いるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)支配した1976年から1979年の3年9ヶ月間で、全人口700万人の内180〜250万人が虐殺されました。あまりに悲し過ぎる、悲し過ぎてやりきれないカンボジアの血塗られた暗黒の歴史です。「苛政は虎よりも猛し」とはまさしくこのことです。人としての尊厳を踏みにじり暴虐の限りを尽くしています。今は慰霊塔が建っています。そして、この処刑地から発掘されたおびただし頭蓋骨がガラス張りの納骨堂に陳列されています。

  収容所の敷地内には、「キリング・ツリー」(処刑の木)と呼ばれる幹の太い木があります。クメール・ルージュの兵士たちは、無慈悲にも収容された子供たち、赤ん坊の頭を力任せに木の幹に叩きつけて殺したのです。ナタやオノで殺害すると刃がかけるため、また銃殺なら高価な銃弾を無駄にするからという理由のため、嫌悪感で吐き気を催す人の道に外れた残虐な行為です。人の命を一発の弾丸よりも軽いものと考える恐ろしさ。つらすぎて涙がとまりません。今も沈黙を守り続けるこのキリング・ツリーは、将来命が尽きて地面に倒れる時には必ず恐ろしく大きな声で叫ぶに違いありません。

  まだまだ続きます、また見て下さいね! (美^~^美)




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